1.青年団協議会代表100名の渡米
昭和30年代に入ると(1955以降)東西両陣営の間の緊張が増大し、海外のMRAは日本の将来をことのほか憂慮するようになった。事実国内では鳩山、石橋両内閣の退陣のあとを受けて 岸内閣が成立し、警職法、教員に対する勤務評定、さらには日米安保条約改定など一連の政策課題を巡って国論の二極化が進み、学生、労組、左派政党などが連携して全国的な運動を展開するなど、政治の緊迫化が進行しはじめた。
こうしたなかでMRAは国際共産主義陣営、特に中国が明確な戦略をもって日本の各界指導層に接近し、その考え方に影響を与えようとしているという認識をもち、共産主義を越える、より優れた理念を普及させることでこれに対抗しなければならないと考えるようになった。当時は米国国務省をはじめ自由主義陣営の側も各種の招待戦略を展開していたが、MRAの視点から見ると、とかく官僚的、形式的で、所期の効果を上げていないように思われた。そこで昭和32年(1957)夏、ブックマン博士は、日本青年団協議会の役員100名をマキノ島の世界大会に招待するという大型企画の実現に踏み切った。
マキノに到着した代表団一行 [拡大]
マキノ島MRAセンター全景 [拡大]
マキノへの旅 [PDF形式]その前年、周恩来首相が青年団協議会副会長の寒河江善秋氏を名指しで招き、心のこもった歓迎をしたという情報も、こうした計画を始動する契機となったかもしれない。青年団協議会が当時の日本にどれだけの影響力を持っているのかは正確にはわからなかったが、ブックマン博士は速やかに行動を起こすべきであると考え、全国的な規模でMRAへの認知度を高めるとともに、「草の根」の指導者を通してその理念を全国に普及する事を決意したと思われる。とは言っても当時の「財団法人MRAハウス」には100名の渡航に関する経費の負担能力はなく、結局その大半がブックマン博士ならびに周辺の心ある個人の浄財によって賄われる結果となった。
全国各都道府県の青年団協議会の支部からそれぞれ2名、本部役員を含めて100名を越える青年指導者が、数ヶ月の予定で一斉に渡米するという企画は日本の耳目を驚かせ、地方のメディアを通してMRAの認知度は一挙に高まった。しかし反面で、言語はもとより国際的経験をほとんど持たない地方の青年多数をマキノ島のセンターで受け入れるというのは、通訳だけを考えても極めて労働集約的な企画であった。食事やスポーツ、各種集会や行事を通じての世界各国の青年との交流、映画演劇の鑑賞、ミシガン州近郊の視察や観光などが主たる行事であり、それがブックマン博士の意図と希望に見合うだけの効果を上げたかどうかはわからない。しかしこれだけの数の地方の青年指導者に、海外の生活や考え方と直接触れ合う機会を与えたことはかなりのインパクトを持ったに違いない。
ブックマン博士を囲む日本青年団協議会役員 [拡大]
劇「明日への道」一場面 [拡大]MRAの音楽や映画、演劇などに触発された青年の間で、MRAを普及する手段として日本でも演劇を作ろうという気運が起こり、富山県の青年を中心として「明日への道」と題する4幕の劇が書かれ、演出され、マキノ島の劇場で上演された。農村の生活、農業用水を巡っての村同士の熾烈な争いを背景として、MRAの影響を受けた数名のボランティアの真摯な努力によって地域の平和と繁栄が保たれるというそのストーリーは極めて日本的で、各国の人々に多大の感銘を与えた。帰国後は全国各地はもとよりフィリピンでも上演するなど成果を上げた。因みにこれは日本人の手による初めてのMRAの演劇で、その後次々と書かれ、上演され、映画化された多くの作品の先駆をなすこととなった。
20頁 [PDF形式]
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39頁 [PDF形式]
《《 アルバム(明日への道)へ 》》
参加者リスト [PDF形式]2.西欧社会主義政党との接触
昭和34年(1959)夏、スイスのコーにおけるMRAの集会に参加していた加藤シヅエ参議院議員、塚本三郎衆議院議員をはじめとする社会党関係者のグループが、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、オランダ、フランス、英国を歴訪し、それぞれの国の社会主義政党の指導者多数と会見した。
当時の日本では日米安全保障条約の改定を巡って左右の対立が激しさを増し、反対する陣営は学生、婦人、労組等市民層を広く動員して、岸政権の正当性に異議を唱え、自民党政策への反発を強めていた。そうした中で革新陣営の側には、外部からの数の圧力に屈し、自らの良識に反して付和雷同するものが多く、一方体制側にも種々の政治的思惑から結束を乱そうとする動きがあった。状況が切迫し、暴力が支配しがちな場面では、本来なら通常の政争に過ぎないこうした動きも、なにかのきっかけで全体の流れを、予想もしなかった方向に変えてゆく危険をはらんでいた。
そうした中で、この年コーを訪問した社会党関係者たちは、この際西欧各国を訪問し、それぞれの国で活動している社会主義者たちの見方、考え方を知りたいと考え、各地のMRAの支援を得て、8月31日にスイスを出発、僅か2週間の間に、特別機などを利用して7カ国を回るというハードな日程をこなすこととなった。
ベルリン市長のウィリー・ブラント、フランス社会党の党首で元首相のギー・モレー、フィンランド社会党の父と言われるタンナー元総理など、ヨーロッパでも一流の指導者を歴訪した結果は、非常に実り多いものとなった。モレー元首相は、1958年、人民戦線の運動の高まりの中で、こうした形での政局への圧力は西欧における自由と民主主義の崩壊に繋がるとの確信から、ドゴール政権支持に切り替えた経緯を語り、ブラント市長は、「ファッショであれ、共産主義であれ、ドイツにとって全体主義の経験は一度で沢山だ」と述べた。
ブラント ベルリン市長と塚本三郎、
加藤シヅエ両議員 [拡大]
モレー フランス社会党党首(前首相)と
加藤、塚本両議員 [拡大]
フィンランド
社会民主党バイノターナー元首相 [拡大]
デンマーク ハンセン首相 [拡大]
スウェーデン エルランダー首相 [拡大]
オランダ ウェイ首相 [拡大]
スウェーデン ゲイアー国際自由労連会長 [拡大]
スイス ショーデ大統領 [拡大]加藤参議院議員は、このときの体験を読売新聞への寄稿の中で、「各国の社会主義指導者達は階級闘争は既に時代遅れであり、(中略)原子時代の今日、階級闘争を押し進めることは核戦争への道であると考えている」と述べ、われわれ社会主義者はよりよい社会制度を作るために闘わなければならないが、どんなによい制度ができてもそれを運営する人間を変えなければ、結局は同じ搾取社会を作る結果になってしまうだろうと主張し、結びとして、「資本家をも、共産主義者をも変えることができる大きい思想に生きること、それが真の社会主義者の使命だと私は信じている。」と述べた。
フィンランド スクセライネン首相 [拡大]
ノルウェー ゲルハルトセン首相 [拡大]僅か2週間の行程であったが、社会党関係者によるこのときの西欧行脚は、革新陣営一般の考え方に新しいアングルをもたらし、それが後の加藤書簡(後述)に繋がったと言う点で、その意義は非常に大きかったと言えよう。
MRAニュース昭和35年7月1日発行より [PDF形式]
《《 アルバム(その他の写真)へ 》》 3.三池争議とドイツ炭坑夫による劇「ホフヌング」(希望)の来日
日本における思想的対立の焦点のひとつが労使の対決であり、中でも長期に亘って熾烈を極めたのが三池炭坑の争議であった。MRAはこうした状況に一石を投じたいという意図を持って、ドイツ・ルール地方の炭坑夫のグループによる自作自演の劇「ホフヌング(Hoffnung)」(希望)を日本に派遣する事となった。一行は昭和35年(1960)3月14日羽田空港に到着し、5月4日離日して米国に向かうまでの7週間、国鉄が提供した特別列車などを利用して東京から関西経由九州を訪問し、帰途は反転して北海道まで行き、国鉄、警察、韓国居留民団、三池炭鉱労働者並びに大牟田市民、自衛隊などでの特別公演を含め、前後42回の公演を行い、49,000名が観劇した。
劇「ホフヌング」一場面 [拡大]
清瀬一郎衆議院議長を表敬訪問 [拡大]
プログラム [PDF形式]4月13日、一行は三池炭鉱の新旧労組が流血の衝突をしてから2週間も経っていない大牟田市に到着し、鉢巻姿の旧組合員がピケを張り、新組合員が大声で市民に呼びかける中、午後は闘争中の労組員とその家族で満員の市民会館で上演し、夜は市民一般を対象として再演、さらに要望が強かったため、翌朝9時からは各坑からの労働者並びに経営者を前に3回目の公演を行った。KBCテレビは劇自体と出演者の声を北九州全域100万の視聴者に向かって放映した。
炭鉱を訪れた一行 [拡大]
炭鉱を訪れた一行 [拡大]
佐世保プログラム [PDF形式]石炭産業が石油への転換を迫られる中で、流血の惨事を伴いながら産業構造の整備再生に努力しているさなかに、まったく同質の難問を抱えるドイツの石炭産業が、思い切った技術革新と労使協調により危機の打開に努めている現実を、当面する労働者自身の口から聞くことの意義は大きく、毎日新聞、西日本新聞、北海道新聞、時事新報、神戸新聞など各地のマスコミに取り上げられ、左右両陣営の対立の焦点の一つとなっていた炭鉱問題に、多くの建設的な示唆をもたらすこととなった。
4.日米安保条約改定への反対闘争を巡って
昭和35年(1960)の春から夏にかけて、のちに「60年安保」と呼ばれた一連の抗争が激化するなかで、東京のMRAハウスは、複雑な対立に巻き込まれた多くの人々が、立場の違いを越えて本音で話をすることができる、ほとんど唯一の場所を提供するという不思議な運命を担うこととなった。
当時の世界を事実上分断していた米中ソ3国の力関係の現実から見れば、国内の思想的対立がどれほど激しかったにせよ、それだけの理由で日本が米国の傘を離れて共産主義陣営に参加するという可能性は少なかったように思われる。しかし国会が連日赤旗を掲げたデモ隊に取り巻かれ、院内でも議事や決議の多くが、対立する議員たちの暴力によって阻止・延期されるという状況を目の当たりにして、終戦以来15年、曲がりなりにも機能してきた戦後日本の政治構造が今にも崩壊するのではないかという、いわば「一触即発」の危機を感じた人も多かった。
保守対革新の対立はもとより、同じ革新陣営に属する国会議員や労働組合指導者の間でも国の将来についての考え方が違い、それぞれが外部で吹き荒れている大衆運動の圧力に巻き込まれ、通常の対話や冷静な議論ができない状態にあった。そうした中で数多くの国会議員や組合指導者が、朝に夕にMRAハウスを訪れ、胸襟を開いて事態を判断し、共通の目標のもとに当面の対策を考えようと努力する姿があった。保守党の有力者と社会党の議員、西尾末広党首をふくむ民主社会党の有力者と労組指導者達などが、朝食や夕食の食卓を囲み、連日真剣な討議が続けられた。
しかし事態は日を追ってエスカレートし、アイゼンハワー大統領の訪日が直前になって中止され、一人の女子学生がデモ隊と警官隊の衝突の中で死亡するなど深刻な様相を呈しはじめると、それまで静観してきた国民の間にも、異様な危機感が広がるようになった。そして6月17日、朝日、読売、毎日の3大全国紙の朝刊に、加藤シヅエ参議院議員が、自らの所属する社会党に宛てて書いた次のような公開書簡が掲載された。
「書簡全文」MRAニュース 昭和35年7月1日発行より
[PDF形式]読売新聞 昭和35年6月17日号「この事態をどう思う」
[PDF形式]反響は極めて大きく、全国の読者が、それぞれの立場を越えてその主張に賛同すると共に、加藤議員の並々ならぬ勇気に対する敬意と賞賛を表明した。社会党は党の方針に反するこの主張に困惑し、懲罰動議なども検討されたが、日が経つに連れて世論の広がりに押され、党の態度も微妙に変わり始めた。
客観情勢も変わり始めた。「60年安保」を支えてきた闘争のエネルギーにも金属疲労が見え始め、岸首相の退陣がそれに拍車をかけた。加藤書簡を契機の一つとして、長期の対立に倦み、変化を求めていた国民の間にも新しい意識が生まれ始めた。そして低姿勢と所得倍増を掲げる池田内閣の登場と共に、日本は闘争の季節を脱却し、高度成長という新しい局面に入ることとなった。
1.大戦後の世界とMRA | 2.大型代表団の派遣 | 3.講和条約前後 | 4.MRAハウスと財団設立 | 5.消えゆく島と博士訪日 | 6.アジアとの和解 | 7.冷たい戦争とMRA | 8.劇「タイガー」 | 戻 る | トップページ
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