アジアとの和解

昭和30年(1955)6月、音楽劇「消えゆく島」は日本での10日間の公演後、台湾を経由してフィリピンに向かった。このとき国会議員星島二郎(自民党)、加藤勘十(社会党)、相馬雪香、中島勝治等4名の日本人がこれに同行してマニラを訪問することとなった。当時のフィリピンでは戦争中の日本の残虐行為への激しい怒りが強く残っていて、4名の入国もMRAを通じての政府要路への特別な折衝の結果、ようやく可能になったものであった。

「消えゆく島」の終演後星島は、戦後初めて壇上に日本人の姿を見て怒号する観客に向かって、相馬の通訳で真摯な謝罪の言葉を述べた。それが契機となって、マグサイサイ大統領は日本人4名を含む一行を引見し、その後MRAを通しての対日接触を積極的に支援し、昭和32年(1957)の春、バギオで開催が計画されていたMRAの会議に、日本人の参加が特に容認されることとなった。残念なことに大統領はこの集会の直前に航空機事故で急逝し、会議にはそのあとを受けて急遽就任したカルロス・ガルシア大統領が出席することとなった。


バギオ 星島二郎議員、
左は通訳する相馬雪香氏
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ガルシア比大統領、
右隣はリム上院議員
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バギオ大会風景 拡大


ガルシア大統領(右端)は
故マグサイサイ大統領を
悼んで喪章で出席
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故マグサイサイ大統領の
私邸を弔問に訪れた一行、
着席(中央)は夫人
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大会会場となった
パインズホテル
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バギオでのMRA会議には大統領のほか、フィリピンからはロス・リム上院議員、労働組合関係の有力者バート・オカ、ファー・イースターン大学学長夫妻、その他多数が参加したほか、台湾からは何応欽将軍、韓国からは朴賢淑国会議員(前厚生相)、 Chung Chun 国会議員,Yoon Sung Soon 国会外務委員長等、また日本からは星島二郎、加藤シヅエ、相馬雪香、柳沢錬三ほか十数名が出席した。日本人に対するフィリピン側の怒りと憎悪は引き続き根強く、会議は緊迫した雰囲気のものとなったが、日本人グループの真摯な反省と謝罪によって閉会の頃には個人的にも、また集団的にも多少とも心がほぐれ、正直な対話が可能な雰囲気が生まれ始めた。

日本側にとって更に困難だったのは、36年の「日帝」による支配についての鮮明な記憶に加え、戦後の南北分断と朝鮮戦争による苦痛を抱える韓国人グループとの対応だった。彼らの態度は一様に硬く、当初はとりつく島のない雰囲気だった。日本側もそれを予想して単なる個人的な謝罪に加えて、当時行き詰まっていた外交関係の面でも何らかの建設的発言をすべきだと考え、出発前に岸首相並びに外交関係者との会合を持ち、その意を伝える形で、当時交渉の癌となっていたいわゆる久保田発言の取り消しと、財産請求権放棄の正式な意思表示を行った。その結果両国、特に女性の代表達の間に少しづつ個人的な信頼関係が芽生え始め、そうした経緯が数年後に始まる日韓正常化交渉への布石の一つとなることとなった。


左から星島二郎議員、韓国代表朴賢淑議員(前厚相)、Yoon Sung Soon 外務委員長、加藤シヅエ議員 拡大

右から台湾何応欽将軍、韓国 Chung Chun 国会議員、韓国 Yoon Sung Soon 外務委員長 拡大

日韓議員の交流(右から韓国 Chung Chun 国会議員、Yoon Sung Soon 外務委員長、星島議員) 拡大

前述したように戦後の欧州では、ドイツとフランスなど旧敵国との間の関係改善が地域再建の前提となっており、MRAもコーのセンターを拠点に最大限の努力を傾け、憎悪、怨恨、悔恨等の感情が渦巻く中で、ドイツ側の謝罪、フランス側の赦しや過去の憎しみへの反省等が生まれ、ドイツ自体も戦後直ちに旧交戦国やイスラエルへの謝罪や贖罪を、国是ともいうべき政府の重要な政策として取り上げることとなった。その結果、当初は個人ベースの現象だった和解が、やがて両国関係のスタンスの見直し、ついで政策的な対応に発展していった。アデナウアー首相、シューマン外相など有力者のコー訪問もこれを促進し、両国を中心とする欧州鉄鋼石炭共同体機構など、戦後の西欧の政治経済の骨格を作る動きに結実していった。

これとは対照的に日本の場合は、1950年の代表団が米欧各国で戦争に対する遺憾と謝罪の意を表明した事は事実であるが、肝心のアジア各国の代表がその場に存在しなかったこともあり、私的にも公的にも戦争中の不法行為に対する謝罪や、贖罪のための具体的な対応は起こらなかった。その背景の一つとして、当時はタイを除く東南アジアの国々はまだ植民地体制に組み込まれており、国際的な認知を受けていなかったこと、また中国はすでに苛烈な国共内戦を闘っており、1951年以降は韓国も朝鮮戦争に巻き込まれてしまったことが挙げられよう。そのため各国とも戦前の被害の賠償を求める余裕と機会がなく、また西側世界で行われる各種国際会議に招かれる事も少なかった。結果として日本との過去の関係は、潜在的には双方とも意識していたが、公開の場で議論されることがないままで時が過ぎていった。このことが日本人の意識の中で、アジアでの過去の行動への賠償責任という概念を風化させると共に、問題をいっそう困難なものとしてしまったように思われる。

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